毎日が誰かのお誕生日

 

みなさん、こんばんは。

 

今日は午前中に予定があったので、サクッと終わらせまして

Yちゃんのお誕生日ケーキを買いに行きました。

 

せっかくだから行ったことがないケーキ屋さんもいいなあ、と思ってケーキ屋さんを探してみたんだけれど、ケーキ屋さんって水曜日休みのお店が結構多いんですね。

良さそうなお店はお休みばかりで、またの機会のお楽しみだね。

 

結局本人に何が良いか確認をして、前に行ったお店の気になっていたカステラを購入しました。

 

 

 

 

しっとりカステラで美味しかった。

 

 

 

 

 

ケーキって小さな子どもの頃は特別な物で、誕生日とかクリスマスとか限られた時にしか食べられない物だったな。今思うと、制限があるから特別になっていたのですよね。

 

ケーキもスイーツも、コンビニでもスーパーでも簡単に買おうと思えば買えて、自分で稼いだお金を自分の好きに使うことができて、

とても便利で快適で自由を得たとともに、遠い過去にいつの間にか忘れてきたものがあるんだなあ。なんて思いました。

忘れてきた”大切なもの”とは敢えて言わないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

話は変わり、

昨日の夜にふと家族から「〇〇(10年程前に働いていたところ)でまた働けばいいじゃん。」と言われました。

その時に、「うーん嫌だな」と思ったけれど、何が嫌かというと、その職場の人達の中にある『過去のわたし』を演じることが嫌だなと思いました。

今は他にやりたいことがあるというのもありますが。

当たり前だけれど、お互いに変わっていくのにその後を知らないとイメージだけは過去のまま存在していて、その人のもつイメージと今の自分との間にギャップを感じます。

なんか今書いていて思ったけれど、わたしが気にしすぎなんだろうなあ。

前言撤回で、ただ人間関係の構築とかに今は疲れているだけかも。

今日運転しながらふと、燃えつき症候群なのかなと思ったし。

 

 

 

しかし、人は暇だと病むものだと思っています。

あと他者との交流がないと病む。

それって自分が自分である意味や目的を見失うからなのではないかと思う。

役割を見失うというか。

たとえば、子どもがいるから母親という役割を得る。〇〇くんのお母さんであるわたし、になる。Aという会社に属するから、Aという会社の社員のわたし、になる。

 

だから子育てとか仕事は、分かりやすく承認欲求を満たす方法のような気がするのです。

 

 

 

 

そうは言っても、どこかでそろそろ重い腰をあげないとな。

 

明日に向かっておやすみなさい。